世間は死に、世論が残った

日本において(外国でも同じかもしれんが)「世間」は死んだ
替わりに今を支配しているのは「世論」である、という言葉遊び的な論考を思いついたが、戯言に近い気がする

というツイートの続き、長くなりすぎたのでこちらで

 

世間は「人様に顔向けできない」というあの感覚だが、それは「大人になってアニメゲームを観るのはあり得ない」「30代になる前に結婚しないといけない」という風潮を作った一方、暴言を人に見えるところで吐いてはいけない、嘘をついたことを誤魔化してはいけない、というある種の倫理を強制していた


カウンターカルチャーやインターネットの掲示板は、ある種それからの逃げ場の一つとして機能していたのだが、今やそこで語られていたような言葉がそのまま社会と一体化してしまった
今のところ、「世間」が押しとどめていたタブーは殆ど消えてしまったが、ある程度うまく回っている気がする


しかし、代わりとなる倫理を求めることなく、このままこの理不尽な怒りと、デマと、執拗なステマと、被害者への執拗な攻撃が跋扈する言論空間の中で生きていかなければならないのか


世間は死に、ネットではある種の意見を共有する人たちの作る「世論」が動かすようになった
ネット以外でも世論は勿論あるだろうが、恐らくネット上ほど強固な団結力は作れないだろう(そしてそれを作るマスコミは今一番攻撃されている存在である)
極端な世論は支持されないが、ネット上ではとにかく目立つ
「世間」を作ったであろう5割の人より、極端な「世論」を作る1割の方が注目を集める


この「世論」の戦いが昨今の「分断の時代」というフレーズを生み出しているのだろうが、別に意見の対立自体はどれだけ激しくてもいいはず
問題は、彼らの戦いがかつて「世間」を構成したであろう多数とは関係がないこと、そして戦いに制限をかけるものがなく晒しだの誹謗中傷だのに容易に行き着くこと


今まではネットと現実にある程度差があったが、今やそれらは同化しようとしている気がする
私の立場は失われた世間体を復活させようとかネットの拡大反対とかではなく、「新しい倫理が必要になるだろう」ということなんだが、ネットの性質上、それは共同体ではなく個人に属する物にならざるを得ない

では、その倫理とは何か。それは「バーチャル世間2.0」のようなものなのか(多数派のぼんやりとした正義感、好悪の感情を、「世論」が主張する内容によってある程度修正したものになるのか)

それとも、全くの別物か。我々は「良心」を持つことを求められるのか。

 

分からないが、そもそもこれを考えなければ、先に進まない気がする。