リスト《調のないバガテル》は無調なのか?(中編)

前回の記事はこのような文章で終わっていました。

なぜ私たちは《調のないバガテル》に無調らしさをかんじなかったのか?

それへの解答からスタートしていきたいと思います。

 

1.無調よりも不協和音

不協和音と呼ばれる代表的なものが、 三全音と呼ばれる音程です。

三全音 - Wikipedia

全音(さんぜんおん)とは、音楽における音程のひとつである。名前は全音3つ分の音程であることに由来する。英語式ではトライトーンと呼ばれる。

全音は増四度あるいは減五度に相当する。ここで増四度は全音階でファとその上のシの間の音程である。

全音は、不協和音の中でも最も響きの悪い不快なものとされ、「音楽の悪魔」と称された。積極的に使われるようになったのはバロック期以降であり、それ以前は可能な限り三全音が現れないよう作曲されるのが通例であった。しかし古典的な和声学においても、属七の和音と呼ばれるきわめて基本的な和音の中に、音の配置によってはこの音程が現れる。三全音を単独で鳴らすと、西洋音楽に親しんだ耳には属七の和音を強く意識させる響きがする。

完全五度(ソ)、完全四度(ファ)とか呼ばれる音程は、元の音(ド)との周波数比を2:3、3:4という単純な整数比で表すことができます。長三度なら4:5。

しかし、ファ♯の音、つまり増四度の音は周波数比が1:√2です。人間の耳は「周波数比が整数で決まる」音の重ね合わせを聴くと心地よいと感じるため、増四度の音程を聴くとすぐになにか不快なものを感じ取ってしまいます。*1

 

さて、突然ですが無調の話に戻ります。無調は「中心音がない」だけで定義を満たすと説明しました。

それでは、一番単純な無調とはなにか?ランダムに音を並べたのも無調かもしれませんが、ここではなんらかの音組織を仮定するとします。

 それは1オクターブ12個をもっとも単純に分ける方法、

1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1

の数列です。半音階ですね。

この場合、半音ずらすだけで元の音列と一致してしまうので、確かにある中心音と他の構成音が同等の立場にある=無調と言えるでしょう。

 

しかし、半音階を聴いて「あ、これは無調音楽だ!」と思ってしまう人は少ないです。むしろなめらかにつながってる感触しか受けないのでは。

「無調音楽はそれ自体ではあまり強い印象をもたらさない」。中心が無い音楽も、半音階のように単音だけで組織付けられ、また次の音が予測できる場合「変だな」とは思うもののそこまで面白いものではありません。

 

音楽の要素で特に感情に訴えかけるものはなにか?それは(西洋音楽では)和音である。

私たちの耳は長和音は明るく、短和音は暗く聴こえる。同じメロディーでも和音つけで違うように聴こえる、という話は有名です。

ならば、一番無秩序に、無調らしく聴こえるためには、長調でも短調でもない和音、特に不協和音が必要ということになります。

私たちが感じる第一の無調らしさは、不協和音なのです。

 

2.実際の作例

さて、ここに一人の新進気鋭の作曲家がいるとします。

今までにない音楽を作るぞー、と意気込んで作ってみても、どうもうまくいかない。

最初は従来の音楽を拡張すべく、遠隔調を含むあらゆる調に転調してみます。ロマン派前期ならそれでも十分前衛に聴こえたでしょうが、それでは満足できなくなります。

作曲家は方向転換し、別の方向から攻めることにします。それは「不協和音の積極的使用」、あるいは究極的には「協和音を放棄してしまう」ことでした。

一番使いやすい不協和音とはなにかと言うと、それは最も歴史ある不協和音、つまり三全音になりますす。

前回減五の和音、あるいは減七の和音というのを扱いました。

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これを「減五」という名前がついている通り、この和音は根音に対して減五の音(ドに対するファ♯)が入っているため、非常に不快な印象を与えます。減七の和音はそれに加え、第3音に対する減五度(ミ♭に対するラ)が入っているため、不快度はナンバー1と言ってもいいでしょう。
このため、古典和声では減五度、減七度を含む和音は主和音などの協和音へ解決するドミナントとして常に使われてきました。

これを「解決しない」音として扱ったら、どうなるのか?

 

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リストの《ピアノソナタロ短調からの引用です。注目してほしいのは3小節目。メロディーは(レ-)ド♯-ラ♯-ソ-ミという下降音形ですが、ここには前回の記事に書いた減七の和音が含まれています。同じ音形の5小節目も(ラ-)ソ-ミ-ド♯-ラ♯で、実は3小節目と同じ和音構成です。

極めつけは8小節目、フェルマータの直前の和音。これは根音からミ、ソ、ラ♯、ド♯でやはり減七の和音で、このため序奏から聴いてきた人はいつまでたっても解決しない音にもやもやとした感情を抱くようになります。

私は不協和音(減七の和音)が連続して使われ、協和音がほとんど登場しないこの部分こそ、無調への第一歩と思っていますが、一般的に有名なのはこちらでしょうか。

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R.ワーグナー作曲《トリスタンとイゾルデ》第1幕への前奏曲です。ここの3小節目の和音(ファ、シ、レ♯、ソ♯)が歴史的には和声の崩壊の第一歩とされています。トリスタン和音という呼び名がついているほどです。

しかし、この曲自体はイ短調で書かれていると解釈できるし、分析によってはこの和音も「ドッペルドミナント7のシ-レ♯-ファ♯-ラの第五音を下方変位させた音」としてる場合もあります。和声学の範囲内で分析できるなら、なんで和声から外れた音のように聴こえるのか?

トリスタン和音自体は、増四度(ファ、シ)も含まれていますが、シとレ♯、レ♯とソ♯の音はそこまで悪い響きはしません。そのため減七の和音ほど強烈な印象は与えませんが、なにか不思議な浮遊感があります。

しかし問題は4小節目。イ長調短調)のドミナントの和音によって解決を期待させるものの、そのまま次の部分(チェロの単旋律、しかもレの音でトニックの「ラ・ド・ミ」を含まない)に移行してしまう。《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲が無調への始まりとされるのは、この部分に協和音が登場しないからではないでしょうか。

 

繰り返しになりますが、私たちの感覚に直接訴えかけるのは調性があるのか、無調なのかということよりも「協和音が存在しているか、それとも不協和音だけなのか」ということです。そして不協和な音が協和した音に解決するのではなく、そのまま放置されてしまう状況に、私たちは強烈な違和感を覚えるのです。

 「現代音楽」と呼ばれるようなものを思い返してみてください。自然と不協和音だけで構成された音楽を思い浮かべていないでしょうか。

もちろんそれも無調音楽ではありますが、《無調のバガテル》のような例もあり、協和音で構成された無調音楽、というのもあることはあるのです。しかし、それだと今までの音楽と同じような響きになってしまう。

ほとんどの無調音楽が(聴いたばかりのときは)不快に思われるのは、そういう音を好んで使っているから、なぜそういう音を好んで使うのかというと、無調音楽を作曲していることを聴衆に知ってほしいから、ということになります。*2

 

だいぶ話を省略したはずなのに、またもや記事が長くなってしまいました。後編では、《無調のバガテル》の簡単な分析と、無調を代表する「十二音技法」の性質について話そうと思います。

*1:ここに書いた文章はものすごく不正確です。純正律平均律の音程の決め方をごっちゃにしてるし、「協和音を不協和音よりも好む傾向は各文化によって違う」という研究も昔見た気がする(音響心理学とか専攻してて知識がある人いたら教えてください)。しかし真面目に書いていたらまたやたらと記事が長くなりそうなので、ここでは要点だけで済ませておきます

*2:協和音に満ちた無調があるなら、その逆もあります。P.ブーレーズはI.ストラヴィンスキーの《春の祭典》が多くの非協和音を使っているものの、基本的には和声に従って書かれていることを明らかにしました。《春の祭典》がその他の現代音楽と比べ遥かに人気があるのはこれが一つの理由だと思っています。