マックス・リヒター《メモリーハウス》感想
読んでのとおりです
ぶっちゃけ批判の勢いがすごいのでこの曲好きって人はバックすべきだと思います
あとからいろいろ追記したい
コンマスの演奏会に行きたいのも勿論だけど今日はクリスチャン・ヤルヴィのツァラトゥストラを聴きに行きます
最近流行りの作曲家(よく知らない)の新作もあるとか
2500円分はツァラで取れた
残りは完全に損した
つーかやけにチケット代高かったのが憎たらしい
最大限公平に言いますと、本日の公演におけるM.Rなる作曲家の曲について私は全く好意的な評価を述べることはできません
これは知的な装いをまとった詐欺のようにしか感じられず、少しでもそれに加担したくないためです
一定期間ツイート非公開にする、変な人に絡まれたらたまらん
マックス・リヒター「メモリーハウス」
よく知らなかったけど映画音楽畑の人なの?
オーケストラ、ソプラノにリヒター本人が弾く鍵盤(チェンバロ、ピアノ、オルガン)
「メインテーマ」をさまざまな楽器が変奏していく
この「メインテーマ」が何なのかというと「ミーレード」の繰り返し
これにそれっぽい和音がつく
言ってみればフィリップ・グラスがミーレードで変奏曲を書いたようなもの
ミニマルミュージックの一つと言っていいだろう
腹がたつのは、1時間ちょいぐらいかかる曲で演奏するのが弦楽器と鍵盤とバスドラムのみ
最後の数分だけ管が入る
これも使い方が腹立たしく、木管は弦と同じ分散和音を演奏するだけ、金管はとりあえず爆音を吹くだけ
つまらない
難しい管弦楽法から逃げた結果弦ピアノばかり使ったようにしか思えない
1922年にシェーンベルクがどうこう、サラエボがどうこう、どっかの少女がどうこう能書きばかり立派で、全部「ミーレード」だ
しかも和声もほぼ使い回し
ジョン・ケージの書いた詩がバックで流れた時は悲しくなった、彼は音楽を自由にしようとしたのに、今やただの知的な背景として隷従させられている
「アンドラーシュ」も悲しかった
多分シフのことだと思う、独奏ピアノで多少バッハを意識している
しかしやっぱり分散和音とメインテーマだけ、聴き苦しいことこの上ない
フィリップ・グラスは誠実な音楽家であることに気づいた
彼はDuet, Violin concerto, Symphonyときちんと名前をつける
そう、バッハのシャコンヌのパクリもあったぞ、独奏ヴァイオリンがニ短調の和音を弾くだけの惨めな作品だ
このリヒターって人は音楽を信じていないんだろうか
シャコンヌは一つのメロディにどれだけのドラマを詰め込めるか、という挑戦だった
ところがどうだ、「どうせヴァイオリンは綺麗な音しか出せ
ない」と言わんばかりの凡庸さ
今ならこう言える、「あの作品にはリズムがなかった」
八分音符と三連符しかなかった、「知的な装い」としての7/8拍子しかなかった(しかもリヒターは一部拍子が取れてなくて躓いていた)
「生命が呼吸を必要とするように、音楽にはリズムが必要である」というのなら
あの空間は死んでいたのだろうか
今こうして思い返しながら歩くと悲しくなる、私の好きなもの、信じていたもの、そういったものの外見とネームバリューだけが剥ぎ取られ、あの馬鹿のひとつ覚えを正当化するために利用された
私はこんなものに金を払って貢献してしまった
前半のツァラは良かった
なんかいくつか怪しいズレはあったが、クリスツィアンは各楽器の声部をすべて聴こえるようにコントロールしていた
テンポ設定も奇抜なことは何もなく、しっかり溜めるところは溜めて聴かせる
まさか、後にこんなものを聴かされるとはあの時は思えなかった
うん、騒がしくてごめんなさい
途中で出ていった人は一人だけだったし、終わった後はまたブラボーおじさんがいたし、多分好きな人には好きなんだろう
私も何も知らずに聴いたら「つまらない駄作だな」以上の感想は持たないだろう
こんなに今までにないほど過剰反応してしまったのは、パンフレットを見たときの期待と実際の演奏の落差、そしてこの作品がつまらないと気づいてから1時間も聴かなければならなかったからだ
一縷の望みをかけて全曲聴いたが…過去の遺産の剽窃以外何もなかった…
ただ悲しい
いや、普通に綺麗な曲だったよ
綺麗な部分しかない曲だった
記憶に残らない映画音楽と一緒
あれを「音楽史的に重要な作品」(パンフレットより)という名目で聴かされたのが嫌だった
「クラシックチャート1位を記録!」と宣伝されてるマックス・リヒターの「リコンポーズド《四季》」、フィリップ・グラス「アメリカの四季」と似たような発想だし
オリジナルで勝負するグラスに対して…なぁ…
お前如きがヴィヴァルディを「再作曲」するなんておこがましい、って言っちゃダメかな
(反応が「劇場版の皮を被った粗悪な総集編(原作は超名作)を観せられた」ときみたい、と指摘されて)
総集編どころか、キャラ解釈が完全に違ってました
好きなルネサンスの作曲家にスウェーリンクという人がいるんですけど、この人の名前がついた曲が含まれていたのであの素晴らしい対位法をどうアレンジしたのかな?って期待するじゃないですか
ただチェンバロで分散和音を弾いてただけなんですよ…
未だに怒りが覚めぬ
もはや曲の印象も忘れかけているのに、「クソな体験をした」という実感だけが残っている
ポスト・クラシカルってなんだよ、現代音楽は皆古典音楽の後に生まれてるじゃねえか
耳障りのいい造語で呼ぼうとするな、私だったらパクリ・クラシカルとでも呼びたい
調べたらM.R氏はレコード会社の一押しらしいですね
グラモフォンとか最近微妙なものを出してきてるな…と薄々感じてはいたが
ポップスを聴く人の「ゴリ押しアーティストを嫌う気持ち」がようやく実感できたぜ
けもフレ2、噂のG・ロードランナー回から見てみたが誰も傷つかない感想を考えた結果「マックス・リヒターに似ている」に落ち着いた
ニコ動にいくつか上がっている脚本考察動画を見てもそう思う
心の動きの描写とか、そのキャラ/性格づけがされる必然性が無さすぎる
今後書きたいこと
「初期シェーンベルク」とはどのような音楽なのか
スウェーリンクとはどのような音楽なのか
ジョン・ケージとは何をした人なのか
《メモリーハウス》ではこれらの人たちの名前がプログラムで間接的に、あるいは直接的に引用されていますが、ほとんど冒涜に近いような使われ方をしています
私が「悲しい」と言う理由はここです
第一、作曲家のチョイスが「マイナーだが名前は知られている」ことである可能性がある
シェーンベルクが十二音技法を創始した、ジョン・ケージが「4分33秒」を作曲したことを知ってる人はかなりいると思いますが、実際の曲を聴いた人はあまりいないのでは
だからとりあえず「オマージュです」と言われたらおかしいと感じるまでもなく受け入れてしまう