リスト:ロ短調ソナタ
今この曲に嵌っていますが、改めて見るとすごい曲ですね。
この曲は、下へ音階で下降していく音型A
付点と跳躍進行が特徴の音型B
前打音と同音連打が特徴の音型C
この3つの音型で全てのメロディが出来ています。
全てというと少し言いすぎたかもしれない。
しかし、中間部の新しいメロディを除けばみんな「このメロディはこの音型のこの部分と似てる!」と関連づけることができます。
基本音型があらゆる要素の組み合わせ単位になっているのです。
上の楽譜の中で、1小節目の上段は音型B由来、
2小節目の下段は音型C由来です。
“sempre f ed agitato”(常に強くかつ激しく)という説明がついていますが、デモーニッシュという言葉がまさに似合うほど動きが激しい。
しかも、音型Bは減七の和音、という不協和音を元にしているので、調性の確定が難しく
不安定なさまよい方が聴く側にもダイレクトに伝わってきます。
「一体なんの曲が始まるんだ?」と思わせて
このメロディ
全く新しい素材に思えますが、これ前半のラの音の連続は音型Cの同音連打由来
後半の付点四分音符+八分音符は音型B由来
フォルテッシッシモfffになった後、2小節目からの下降音型は音型A由来です。
「世に新しきものは何もなし」
Grandioso (堂々と)という言葉に合わせて、まるで違う明るい世界が開けてくる!
ここのスケール感を出してくれるピアニストはいいですね…。
後半はもう少ししてから追加しますが、
以下の楽譜でも音型Bと音型Cを探してみてください。
(提示部の小終結部〜中間部 (または展開部)まで)
(中間部が終わり、音型B+Cによるフーガが出現したところ。フーガという古風な形式がこんな斬新な作品に現れるとは!)
(曲全体の終結部。音型Cのドローンの上の和音も、革新的な進行をしています。呟くような音型Bが出現し、 (ここには出てきていませんが)、再び音型Aが最低音域で現れて締めくくります)
同じ音型が、愛らしくも、残酷にも、輝かしくも、悲痛にも、宗教的にも、悪魔的にも、歌にも、踊りにも、そしてもちろん音楽にもなる。
変化し続ける音型Bと音型Cに対し、音型Aはほぼ冒頭と同じ形で何回も出てくるので、人生における理想みたいな何かを表しているんじゃないかと感じることがあります。
その音型Aも、決してメジャースケールやマイナースケールで現れることはなく、旋法という古い音楽に従っていて、変化し続けるというのも魅力です。
彼のピアノソナタは、あらゆる要素が内包されているのです。
バーチャルユーチューバーと良いブラックスワン
Vtuberというジャンルがツイッター上で有名になったのは去年のこの時期だったと認識してますが、未だに人気は衰えないしジャンルも拡大している
悪いブラックスワンは一瞬で全てを壊すが、良いブラックスワンは時間をかけて広まるとタレブは説明している
我々はスマホの存在に慣れているし、あらゆるところでネットに接続し、手のひらに収まるパソコンを扱うことについて「そうなることは分かっていた」と考えてしまう
だが、それは2007年以前には予測不可能だった、誰にも
明日は帰納と同じだろう、という考えだけはそのまま保持されているのに
20年後には、誰もがバ美肉社会と物理的な世界における社会(これが無くなるというのは有り得ないと思う)の両方での生活をするのが当たり前なのかもしれない
私だって本当に信じているわけではないが
もちろん、悪いブラックスワンにより規制され、バーチャル文化が壊滅してしまう可能性もある
私たちにできることは、(タレブによれば)良いブラックスワンについてはふつうに受け入れること
悪いブラックスワンは防ぎようがないのだから、吹き飛ぶ(blow up)ようなリスクを取らないこと
「もし何かがあったら?」を常に考えておくこと
可能性について自分の頭で考え、調査をすること
ポケモンへの思い入れ
私の世代だと初のポケモンルビサファになるんですけど、私は緑なんですよね
周りの子がポケモンやってるのを見て親にねだったら、9月16日に出るエメラルドを買ってくれることになった
14日の誕生日、先にGBAのSPという本体の方を買ってもらえた
これは初代のゲームボーイも遊ぶことができた
2日間の間待ちきれなくて、兄のお下がりの緑をリセットしてやったら、こっちに愛着が湧いて、しばらく緑ばかりやってた
途中で攻略に詰まってエメラルドに乗り換えちゃったけど
一度乗り換えたらエメラルドの方がグラフィックは綺麗だしポケモンの種類は多いしストーリーもすごいし(エメラルドはルビーとサファイア両方のストーリーを合わせていた)、ずっとこっちばかりやってて
最初にポケモンリーグを制覇したのはエメラルドだった
というか最初何もわかってなくて、緑で詰まったのも
トキワシティからすぐ左の道路(ゲームを進めてからじゃないと通れない)で何かやり残したんじゃないかとウロウロしていたり、カビゴン倒す方法をひたすら模索してたから
なんかどっかの島に波乗りで行かないといけないのを知らなかったんですよね…
そもそもマサラタウンでだってあれ「草むらに入ってはいけない」と言われるのを無視して草むらに入らないといけないんですよ(唐突なネタバレ)
初めてのゲームだったから「やれることを全部やってみる」のが基本ということすら知らなかった
もう今の私はほとんどゲームをしないけど、(ポケモンはプラチナでやめてしまったから最近のやつ本当にわからない)
初めてのゲームのリメイクだけは、やろうと思った
何となく
当時の自分が何考えてたか、みたいなのを改めて確かめてみたかった
今思い出したけど、赤・緑のテレビって
少年が4人で歩いてるところが映っているんですよ
間違いなく「スタンド・バイ・ミー」のオマージュ
当時映画すら見ていなかったし、スティーブン・キングは知らない
そういう「まっさら」な状態だったなと
今でもあのテレビには4人の少年が映っているんですかね
レポートを書いたら確認しに行きます
Mozart as a Sevice(MaaS)
AdobeのWebフォントに制限が無くなったのを喜ぶあまりに作ってみたやつ
日本語はフォントワークスのマティス、英語はPaganiniです(薔薇からフォントまで幅広くカバーするパガニーニさんェ)
Mozart as a Sevice, not a “Missa brevis”(K.194).
He created wonderful operas, but I don’t believe he keep in mind Euclidis Opera Omnia. It’s just a Jest, I mean.
スマホ版は変化ないのでPC版で見てね
https://comsoshirou.hatenablog.com/entry/2018/10/17/005144
バランス悪いな、でもPaganini使いたいし…
色々調整してみる
モーツァルト批判
ツイッターにも書いたけど、モーツァルトを聴いていると無条件に賞賛したくなるので、「もし私が批判的な文を書くならどうするか?」と考えて書いた文章
なんというか、純粋な思考の訓練なのであまり大した意味はないです
小林秀雄は「モオツァルト」において「 モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」「彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった」と評したが、これは真実ではない
モーツァルトの音楽は常に目的意識に導かれた。彼にとって音楽はなによりも生活の手段であったのだ。
モーツァルトといえば晩年の困窮ばかり取り上げられるが、しかし彼の旅行が、そうあのマリア・テレジアへの謁見の時でさえ「就職活動への布石」であったことを忘れてはならない。
彼の父親レオポルドは世の多くの父親と同じく、かの神童を安定した職につけようと考えていたのだ。
それは王族、大貴族の宮廷音楽家になることであり、彼のローマ、パリへの旅行は彼の地の音楽を学ぶことが目的ではなかった。
ヴォルフガング本人はどうだったか。彼がザルツブルグ大司教の元を飛び出しウィーンで腕試しをする姿勢からは、彼の若さ (と勿論稀有な才能)から来る自信のほどがうかがえる。 だが、彼は安定した職業につかなかったからこそ、当時のブルジョワ階級…音楽的素養は乏しいが、音楽を鑑賞することで貴族の世界に近づこうとする者たち…の要求に合わせる必要があった。分かりやすく、演奏しやすく、誰が聴いても美しいと思える音楽。
ベートーヴェンのピアノソナタとモーツァルトのそれを比較してはならない。前者はまさに探求と試行錯誤の芸術であるが、後者は裕福な子女のための練習曲として書かれたのであり、それ以上のなにかを期待してはいけない *1。
モーツァルトの開発した技法などというものはない。
彼の音楽は常にレオポルドの影響下にあり、その厳格な作曲法から逃れることはできなかった。
彼が各地の音楽の語法を積極的に吸収しようとしたのは、偉大な父親への反抗の手段を見つけるためだったのではないか。
だが、それすら「彼の音楽」ではない。
ベートーヴェンが自らの思想を、革新的な音楽語法を前面に押し出したのに対し、モーツァルトの世界ではそれは常に調和の中に捉えられる。 ハイドンに見られたような驚き、意外性はない、退屈なまでに。 モーツァルトにあっては、全ては静止する。
しかし、モーツァルトの交響曲第40番はどうか?
あの暗い衝動はまさに「疾走する」のではないか?
しかし、これも考えてみれば40番はその一音目から哀しみを訴えているのであり、聴き手はまさに予想したものを受け取るのである。
ドン・ジョバンニの序曲を聴き、これが喜劇的結末を迎えると考えるものがいるだろうか。
彼の音楽は分かりやすいのではない、分かりやすく設計されているのである。
彼が独自の技法を確立しなかったと述べたが、少しだけ訂正されなければならない。その中心課題はレオポルドの死後すぐに書かれた「冗談の音楽」K.522に見出される。
この曲を聴くと大概の人は面喰らう。我々は例えばP.D.Q.バッハがそうであるような他の作曲家のパロディ、そうでなくても分かりやすい失敗を期待するが、そのようなものはほとんどない。
いやあることにはあるのだ。それは奇数小節のメロディ、誤った和声法、バイオリンの全音階、ホルンに適さぬ音程、そして最後の最後に現れる多調とその結果としての不協和音。だが、これらは、そうまさに「調和の中に」現れる。
モーツァルトはまたもや自らの語法…レオポルドから受け継ぎ、ヨーロッパの音楽の髄を極めた完成系から踏み出していないのである。いや、そこに彼は新たな技術、間違った音楽を書く技術を付け加えたのに過ぎない。
私は彼がこれを意図的にそうしたのではないかと思う。すなわち、彼は聴衆に受け入れられたかった、人気作曲家でなければならなかった。 *2
しかし、彼は市民社会の黎明期にあって、後に全ての作曲家が悩まされるあの不安に悩まされることになったのだ。すなわち、唯一無二であること、自己のアイデンティティを確立すること。
トルコ風音楽、マンハイム派の気概、ヴェローナで学んだポリフォニーの伝統とバッハ、ヘンデルの再発見。これらは彼の音楽を特徴づけたが、他の作曲家に真似されるかもしれない。彼は自分だけに使える技法を求めた。それが「誤りの音楽」であったのだと信じる。
思えば、フィガロの結婚序曲の冒頭、7小節で終わってしまう無窮動の中に既にその兆候は見られたのだ。 ここで私が新たに問題にしたいこと、それはまさに「フィガロ」には一聴して不自然に聴こえる部分が全くないということである。
20世紀の作曲家はドン・ジョバンニのスコアを何気なく眺めて喫驚した。そこには十二音が使われたメロディが密かに隠れていたのだ。モーツァルトは既にシェーンベルクを、調性崩壊を先取りしていた!そのうち、研究が進みピアノ協奏曲第24番、交響曲40番にも似たような例が見つかった。
だが、なによりも重要なのはそれは私たちが十二音を均等に扱うという概念を発見するまで、隠れていたということだ。それは美しいアリアの中で、弦の奏でる優美な移行部の中でのみ見出される。 彼は言う、「音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、けっして耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽でありつづけなければなりません」 *3。
彼のこの美意識、節制は、しかし彼の後継者を生み出すことに失敗した。それは彼の作曲の弟子が成功したかというような意味ではなく、後の作曲家にとってのロールモデルがベートーヴェンとなったような意味である。モーツァルトの美しさは見過ごされた。そこには彼にしかできない音楽、いわば「コピー対策」が盛り込まれていた。その技法を前面に押し出せば、後の音楽史家は革命はベートーヴェンではなく、モーツァルトから始まったと考えただろう。だが、彼は100年後の自分の評価より明日の聴衆の受けを選んだ。
そして、書簡にあるように「感情が決定的に音楽に影響をもたらすことに」もその一つに含まれる。彼はあえて調和の世界に留まることを選んだのだ。
モーツァルトの音楽を聴き、私達は快さを感じる。彼は私たちに受け入れられることを望んで作曲したのだから、彼の試みは成功したと考えられる。 しかし、何かが足りないのだとしたら何か。そこには私たちを落ち着かせ、思考を抑えるものだけが含まれ、ベートーヴェンのように我々を奮い立たせるものはないのだ。 モーツァルトの音楽が完璧だ、などと思うあなたは、騙されている。
そのうち自分で反駁する文章書くつもり モーツァルトはいいぞ